16.あなたの富のあるところに、あなたの心も ​​​​
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(マタイ福音6章19~34節) ​​​​
19.「あなたがたは 地上に富を積んではならない。そこでは、蟲が食ったり、さび 付いたりするし、また、盜人が 忍び込んで盜み出したりする。20.富は、天に積みなさい。 そこでは、蟲が食うことも、さび付くこともなく、また、盜人が 忍び込むことも盜み出すこともない。 21.あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。 22.「體のともし火は 目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、23.濁っていれば、全身が 暗い。 だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。24.だれも、二人の主人に仕えることはできない。 一方を憎んで 他方を愛するか、 一方に親しんで 他方を輕んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。25.「だから、言っておく。 自分の命のことで 何を食べようか 何を飮もうかと、また 自分の体のことで 何を着ようかと思い惱むな。命は食べ 物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26.空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。 あなたがたは、鳥よりも價値あるものではないか.27.あなたがたのうちだれが、思い惱んだからといって、壽命をわずかでも 延ばすことができようか。28.なぜ、衣服のことで 思い惱むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡つむぎもしない。29.しかし、言っておく。榮華を極めたソロモンでさえ。この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30.今日は 生えていて、明日は爐に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように裝ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31.だから、『何を 食べようか 』『何を 飮もうか 』『何を 着ようか 』と言って、思い惱むな。32.それはみな、異邦人が切に求めているものだ。 あなたがたの 天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33.何よりもまず、神の國と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな 加えて与えられる。34.だから、明日のことまで 思い惱むな。明日のことは 明日自らが思い惱む。その日の苦労は、その日だけで 十分である。

ふたりの主人に兼ね仕えることはできない(24節)

私たちの前には二つの世界がある。私の国と義を求める世界と神の国とその義を求める世界である。ところが、両方を兼ね備えることはできない。私の国と義を愛するするとすれば神の国とその義が損傷されるし、神の国とその義を愛するとすれば私の義が損傷される。二人の主人に兼ね仕えることはできないからである。神と富とを同時に仕えることはできない。

あなたの富のあるところに(21節)

宝とは誰かにとって最も大切なことである。人間にとって一番の宝物は何であるのか。人の奥底にある宝物は「自己愛)」である。人間が最も守りたいと思う事は自分自身である。人が富を愛する理由は、それが自分を守ってくれると思うからである。私を保存し、光栄にし、思った通りに願い事が叶うようにしてくれるからである。富を愛することは自分を愛しているからである。「宝のあるところに心もある」という言葉は、宝物が即ち自分自身だからである。イエスは「わたしのもとに来て、自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」と語った。(ルカ14:26)

富は天に積みなさい。(20節)

宝が地にあるのか、天にあるのか。私を宝に思うのか、それとも主ご自身を宝に思うかの問題である。宝を天に加えるということは、自分自身を主ご自身のため注ぐのである。自分を愛するならば自分のために加えるようになり、主を愛するならば主のために自分自身を献身するようになる。パウロは自分の富と自分自身も教会のために使い果たすと言った。(Ⅱコリント12:15)

体のともし火は 目である(22節)

従って、何が宝に見えるのかが重要である。目が澄んでいれば何が宝なのか見分けることができる。自分の誇りのない人の栄光を知るのであれば、自己愛に陥っていることがいかに愚かなことであるか見えるようになる。自己愛に陥っていることは、まるで穴の開いた壺に水をそそぐことと同じだと言える。知っていながらそのようにする人はないだろう。目が澄んでいるならば全身が健康になる。そんな訳でパウロは、「あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが 神に召されていだいている望みがどんなものであるか、 聖徒たちがつぐべき 神の國がいかに栄光に富んだものであるか。また、神の力强い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」と語っている。(エペソ1:17,18)

思い惱むな(25節)

主のため私がついやされ、宝がささげられるとすれば、私はどうなるのだろうか?「空の鳥を見るがよい。野のゆりを見るがよい。野の草でさえこのように装ってくださるのなら、あなたがたにそれ以上良くしてくださらない筈があろうか」と言われた。これは神の国を求め生きる人の告白である。私たちは人間なので病気にかかり、事故にあう場合もあり得る。誰もが同じ確率の中で生きている。神が守ってくださるから事故の確率が低くなったり、貧困が解決されるという訳ではない。私たちの関心が神の国とその義にあるからである。神の御心に適った悲しみは、私たちを清めてくださると語った。(Ⅱコリント7:10,11) その日の苦労は、その日だけで十分である。 」

そのお方の国と義

その国と義は私の人生のすべてを決定する測りなわである。私の国と義は他人に見せようとする世界であり、神の国とその義は隠れた所で見て居られる神による世界である。私の義を持っているならば、必ず憎しみや争いが生じる。私と異なっている他のことを認めることができない。そのお方の国になることができない。しかし、神の義によって生きるのであれば、感謝と賛美だけである。私に与えられた恵みしか言えない。神の国の問題を持っている人には、自分の問題は消えるようになる。神の義を味わった人は、自分の義を持っていることができない。 
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