24.襲われている天の御国 ​​​​
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(マタイによる福音11章12節、24~30節) ​​​​
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。 そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(新改訳) ​​​​
彼が 活動し始めたときから今に至るまで、天の國は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。(新共同訳) ​​​​
しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ 輕い罰で濟むのである。そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知惠ある者や賢い者には隱して、幼子のような 者にお示しになりました。そうです、父よ、これは 御心に適うことでした。すべてのことは、 父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、 子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を 負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは 柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは 安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は 輕いからである。」

攻められる天の御国

10章で、イエスは十二弟子にご自分の働きを継承する権威をお授けになった後、遣わした。また、彼らが福音を宣べ伝える時、この世から憎まれ迫害されることを予告する(10:16-23)。人より神を恐れ十字架を背負ってついて行かなければならなく、命をかけなければならないと語っている(10:28-39)。

第11章では、イエスがどのような方なのかという洗礼者ヨハネの問いと(2-6)、バプテスマのヨハネがどういう人物かについて語っている(7-15)。牢に閉じ込められた洗礼者ヨハネに向かって、「バプテスマのヨハネの時から今まで、天の御国は襲わって来た。」と語ったのである(共同訳を参照)。攻めの辞書的な意味は、「他の国を不意に攻めかかる」という意味である。天国はいつも世の力によって侵害を受けているという訳である。ヨハネがイエスに「来るべき方は、あなたでしょうか 」と尋ねたのは、世は依然として力があるようであったが、イエスの天の御国ははっきり見えなかったからである。

「天国は積極的に攻める者が奪い取る」という解釈のため、人間の意志を発動しなければならない律法主義から完全に逃れることはできなかった。天国は貧しい者の国なのに、まるで天国を力で奪い取るかのように誤解させた。神の国は、力か能力で占める国ではない(ゼカリヤ4:6)。頑張ればできると思ったので力を入れ、最終的にキリスト教の中でさえその暴力性を取り除くことはできなかった。

攻める者たち

人たち、力で天国を奪い取ろうとする者が誰なのか?イエスはバプテスマのヨハネを指して言われた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。着物を着た人ですか。」と問いかけた。一次的にはヘロデを指したことであるが、力で天国を得ようとするのは神を離れたすべての人間の属性でもある。

善悪の実を食べて神のようになろうとした人間の特性は、自分の力で自分の欲しいものを成就しようとする。そんな訳で、ネフィリム(巨人)になることを願う。力があれば欲しいものを自分の方法で得られる。力で得ようとする限りそれは自分の国であり、神の国にならない。アブラハムが力で得た息子イシュマエルは神の嗣業しぎょうを継ぐことができなかった。もっぱら恵みであるイサクによる者のみが嗣業を引き継ぐようになる。

幼子のような者にお示しになる

イエスは女の子孫である。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻...すべて善悪の裁きの前では顔を上げることが出来ない人であった。イエスが大切に思っていた人たちは「貧しい者」(5:3)、「小さな者」(10:42)、「子供」(11:25)であった。バプテスマのヨハネの問いに対しても「貧しい者に福音が伝えられる」と答えた。彼らは、この世では力がなくて弱い者である。しかし、天の御国はこのような者のものである(マタイ19:14)。

貧しい者と小さな者たちは、世で無視と迫害を受けてきた。バプテスマのヨハネも投獄とうごくされ、そのあとに召された人々にも苦しみと死が予見された。人々はこの天の御国に無関心であり(11:17)、力あるわざがなされたが、悔い改めることはしなかった(11:20-24)。天国は屠ほふられた子羊が統治する国である(黙示録5:6)。天国の民はいつも世では無視され、踏みにじられやすい存在である。ところが、天国の福音が子供のような存在に現れた(11:25)。貧しい者に、神の義と命と品性が現れる存在の祝福が明らかになる。

苦労と重荷を取り払ってくださる

福音は私たちを神が造られた元の所に戻すことである。そこで自分のため、自分の力で何かをしようとした習性がおろされるようになる。主のくびきは負いやすい。イエスのくびきを共に背負うならば、自分の道を図ることなく、神の導くまま任せる人になる。十字架につけられたイエスの中で荷がおろされ、安らぎを得るようになる。 
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